"iratsume" ->> Nihongo ->> 「分野別」essays/activism ->> hometownlessness 最低限の生活―2005年無買デーによせて by Janis

最低限の生活が、どのくらいか分かんない。うちには犬がいて、このコは手放せないけれど、犬と暮らすのはたぶんフツーの人の感覚で最低限の生活に入っていないと思う。私は電子ピアノを持っていて、このコも手放せないけれど、楽器を持つのはたぶんフツーの人の感覚で最低限の生活に入っていないと思う。私は有機栽培の小麦を使った全粒粉のパスタを愛していて、これは私にとっては欠かせない食材だけれど、このパスタはフツーの人の感覚では最低限の生活に入っていないと思う。私は石けんしか使わないけれど、一般的な洗濯用洗剤と比べるとたいてい割高だから、洗濯用石けんはフツーの人の感覚で最低限の生活に入っていないと思う。

4年くらい前に私は病院に収容されたことがある。個室で、それから食事は少なくともいくつかのメニューから選ぶことができた。洗濯機や乾燥機は自由に使えたし、シャワーは好きなときに浴びられた。そのときはフツーだと思っていたけれど、どんな施設に収容されてもこれは最低限の生活の範疇にあるだろうか。ちなみに保険でカバーされたからそれ以前に払ってあった保険料を別とすれば、入院自体の費用は個人負担していない。

私にとって当たり前と思っていることが得られないととても困るし、どういう状況になっても私が当然の権利として求めても構わないことはあると思う。けれども、そうじゃないと他の人たちは思っているかもしれない。今ここで何か大きな災害があって、支給される食べ物がベジタリアンじゃなかったらどうすればいいのかとか、犬と離れ離れになったらどうしようとか考える。

今の私はテレビを見ないから、テレビを最低限の生活にあるべき娯楽とは思っていない。今の私はお気に入りの石けんで髪を洗うから、シャンプーを最低限の生活に絶対必要な生活用品とは思っていない。今の私は動物由来の食材を摂らないから、肉を最低限の生活に当然の食べ物とは思っていない。私にはいらないから、自動車をみんなが個人所有することが最低限の生活の範囲内とは思っていない。でもテレビや、シャンプーや、動物由来の食品や、自動車が、現代日本のほとんどの地域では個人の贅沢ではなく大多数の人にとっての生活必需品と認識されていると知っていて、この状況を変えようとは特別していない。他の人の最低限の生活を脅かそうとは決してしていない、つもりだ。

ただ、私自身が最低限の生活を脅かされたら困る。だから、私が当然享受できるのだと自分自身が思えて、他の人たちに主張できる、私自身にとっての最低限の生活の輪郭を掴もうと、試行錯誤している。誰かを低賃金や無償で働かせて手に入れた服を買うのではなくて、誰かを大量の農薬に被爆させて手に入れた果物を食べるのではなくて、誰かの取り分を横取りして手に入れた豊かさじゃなくて、誰かの最低限の生活を侵して手に入れた富ではなくて、今の私がここで私自身の最低限の生活を維持するとしたら、それはどんな形になるだろう。私にとっての最低限の生活を超えているところが、今の私にあるとしたらそれはどこだろう。(というわけで11月最終土曜日は無買デーなんですよ。みなさん。)

Text by Janis Cherry
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  • 2005年11月26日(土)無買デー記念(お祝い?)パーティーを東京早稲田でします。詳細はこちら。
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    23.11.05
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