"iratsume" ->> Nihongo ->> 「分野別」エッセイ ->> hometownless レズレズレズー

レズレズレズー

Vagina monologues 日本公演の宣伝文句で「初めてのレズ体験」を見つけたとき。最近ある本の著者プロフィールに「レズ&ゲイ映画祭」とあるのを見つけたとき。正直、いやな気持ちになった。

とはいえ、今の私は「レズ」と言われただけで落ち込むほどやわではない。「レズビアン」さえ口にしづらい人たちのために「レズビアン」や「同性愛者」という言葉が耳になじむように意識的に連呼しているし、仲間内なら「レズ(ヅ)」も「オカマ」も人目を憚らずガンガン使っている。例えば『私は「レズ」ですよ、それが何か?』と開き直った文章をウェブ上で発見したら全然気にならない。それどころか書いた人に好意的な興味を持つと思う。自覚がないがたぶん普段私自身が「レズ」という言葉をかなり使っている方だと思う。「レヅ」「レズ」「ズーレー」くらいでガタガタ言うな、お前らPTAか、と(自己)規制には反発する。それでも本には書いてくれるな、宣伝には使ってくれるな、そう期待している。だから期待を裏切られた失望か、傷つきか、言葉が見つからないのだが、自分が場違いと感じる「レズ」と出会ったときの違和感はどこかで表明したくなる。そして「レズ」が差別語だ、侮蔑語だと糾弾できれば楽なのになあ、とうっかり思ってしまう。

同時代に生き残っている複数の類義語は等価ではない。アル中とアルコール中毒とアルコール依存症は違う言葉だ。統合失調症と精神分裂病と白痴は違う言葉だ。「レズビアン」と「レズ」は違う。「レズ」があの芝居の公式な宣伝文句やノンフィクションの一般書籍で注釈なく使える言葉と私には思えない。カムアウトしてマスコミに出てくる「レズ」なんてほっとんどいない今の日本の状況では、手垢のついた、否定的イメージの強い「レズ」を人寄せや売らんがためには使えるが、「レズ」を女の同性愛者を意味するある程度中立的な言葉として使うことはできないと私は思う(だからといって禁句にしようなんて思いたくないけど)。

結局「レズ」のイメージが狭すぎる、少なすぎるのが問題なのは分かりきったことだ。だからまあそんなこんなを考え合わせると、抗議してもしょうがない。というのも先に挙げた二つの例で私は「レズ」そのものよりも別の事柄に反応しているのかもしれないのだし。つまり思い入れの強い作品や知り合いの知り合いみたいな人に関わる言葉として「レズ」が出てきたから気にしているところが少なからずある。

でもやっぱり自分(例えばこのサイトだとか)より影響力の強いメディアで、狭いイメージのままの「レズ」が使われるのを見ると、レズビアンや同性愛者やバイセクシュアルやクイアがみんなある種の「レズ」でしかなくなってしまいそうで怖くなる。

いや、外から見れば私だって安易に「レズ」を使っているのだけれど、どうしても私が「レズ」というときは場面にはよって程度の差はあっても覚悟がいる。私は事実「レズ」で、現実に「レズ」だと罵倒されようが文句が言えない(言うけど)。そういう人間が腹をくくって「レズ」というのと、それほどリスクを負わない人が「レズ」を使うのは安易さの度合いが違う。私が「レズ」ということで傷つく他の「レズ」がいたら、それは「レズ」なんて大事な人間と思われてないという「レズ」差別の表れだが、そういう傷つく「レズ」を置いてきぼりにして、私は「レズ」を使う。そういう傷つく「レズ」をないがしろにしつつ、それが分かっているからこそ自主規制しながら、私自身が「レズ」を使う。その「レズ」と、気まぐれに街角で出会う「レズ」とは訳が違うとハッタリのひとつも言いたい。

そうしていまだに「レズ」に仲間内でないところで出会うとぎょっとしている。その度にわたしゃ「レズ」がそんなにいやだったのかとも思う。軟弱ゆえ傷つく言葉は他にも多々あるのだが、相も変わらず私としては場違いと感じる「レズ」にもまだまだ傷ついている。

比較されることのある英語の dyke や queer という言葉にはかつて誰もが侮蔑語と了解していた歴史がある。侮辱された一人ひとりが散々いやな思いをして、いやだーと叫んで、その後新たな逆に肯定的な意味を持つようになっている。「レズ」にその歴史は見えない。「レズ」はそーゆー「レズ」なんかじゃない!と怒りはしたかもしれないが「レズ」自身がその現実を理解した歴史が見えない。ああおっしゃるとおり私は女の同性愛者ですよ、レズビアン、いうなれば「レズ」です、でも「レズ」といわれるのはいやです、その言葉は単なる略称という以上に差別的なニュアンスがあるからやめてね、って主張が当たり前に無視されず重要であると取り上げられた、少なくともその記録は日常生活に近いところで見つからない。日本にいると女の同性愛者がそのレッテルについて、自分自身がどのラベルで呼ばれるかにこだわった過去が、それこそが世間から見た現実だと理解した過去が私には見えないでいる。日本在住の女の同性愛者(集団)は今から新たな意味を作り出したり既存の意味を揺らがすほど、レズビアンでも「レズ」でもかつてあったことがない。そこが英語の dyke や queer と違うと思う。

誰であっても自らに降りかかった出来事について、自分自身こそが怒ったり気にしたりしなくては、まして最重要でなくてはおかしい。自分が「レズ」だという疑いを持った人たちの多くには、狭い「レズ」イメージを押し付けられる感じがする「レズ」という言葉がいやだった経験があると私は思っているけれども、自分のことを「レズ」といわれて怒る「レズ」なんて日本のどこにいるのか。もちろん私個人はそういう人たちを知っているが、私が知ってることと一般に知られていることのギャップがすごくある。一般に日本在住者(集団)はもっと自分のカテゴリーやラベルや地位によって違う扱いを受けたときにはもっともっと人権侵害だ侮蔑だ差別だと怒ったりしてもいいんじゃないかと、政治運動や市民運動といわれるものの盛り上がらなさに思う。

差別語がずうっと昔からそして永遠に差別語のままでいるわけもないし、言葉の意味は文脈によってブレることを私は知っている。同時に固有の文脈など感じられないような場面や引用によってある言葉が一人歩きすることも知っている。だからどこに何を書くか、どこでどの言葉を使うかを私は気にする。だからこそ一度発せられた言葉について、ごめんねもう言わないよ、と言われてもなかったことにはできない。

私はまだ場違いな「レズ」が何気なく使われることに違和感がある。とんでもないところで私はあなたの思うような「レズ」ではないとご丁寧に語っていることがある。その都度開き直るか無視するか抗議して話し合うか、いずれにせよ私は「レズ」という言葉を気にしている。みなさんは「レズ」という言葉と出会ったときどうしてきました?どうしてます?どうしていきます?それとも「レズ」なんてすでに乗り越えましたか?

Text by Janis Cherry
  • ライタープロフィール






    <<参考URL>>
  • 『週刊金曜日』●「伝説のオカマ〜』は差別か
    http://www.pot.co.jp/okmhg/

    ポット出版のサイトから。本も出てます。

    28.02.05
    14.05.15 漢字の間違いをこっそり訂正
    Copyright © 2002-2008 "iratsume." All Rights Reserved.