ホメオパシー

June 26th, 2005

しばらくお休みしていたのですが、何となく余裕が出てきたのでホメオパシーを再開するかという気分になっています。今回はここでお買い物しました。
浄化活性セットてのをとりあえず買ってみた。どう出るかな?
物はイギリスからの輸入品です。

ホメオパシーを選んでいるのは、医者ぎらいとか実際効いたからというのもあるのですが、動物実験してないというのも大きいです。何しろ人体実験して確かめていますから。
ホメオパシーはどの説明も何となく胡散臭くて、いわゆる科学的ではないんだけど、要はよくなればいいのです。民間療法の一種で、保険はききません。

金魚すくいってどうなんだろう

May 20th, 2005

金魚すくいで買ってきた金魚は病気の確率が高かったような気がする。どんくさいのをすくっちゃうのかもしれない。何度かヒレのところにカビみたいなのが生えていたのを覚えている。長生きすることも時々あったけど。

グッピーを育て始めたという知り合いが魚たちが増えたらグッピーすくいをできるというので、なんかいやだなあ、って思った。私が魚を食べないのは、魚一般をおいしいと思うことがごくまれで体が要求しないこともありますが、釣られたり捕まえられた魚がひどく傷ついてそのあとリリースされても傷から感染症になったりするとか、捕まえられた後に痛みを感じ続けるとか、まあそういう話を聞いて、食べるのはそのうちの一部としてもなんかそうまでにして食べたくないなあ、って思ったからです。(だんだん小学生みたいな文章になってますね、私。)

金魚すくいも、金魚さんたちにとってどうか知りませんが、病気のなりやすさとか傷のつきやすさってのはあると思うのね。そういう買い方というか、そういう遊び方って、大人になってまで、どうしてもしたいもんなのかなあ、と思ったら、なんか違うと思っていて、人が金魚すくいをこれから始めるなんていうのを聞いて(グッピーだけど)、そういう扱いができるのは相手が魚だから、てのをちょっとは考えろよ、と思ったりする。

私は、それが楽しいんだからいいんだ、ってもう思えない。だからといってそんな楽しみが分からないことがつまんないとも思わない。今となっては金魚すくいの何が楽しかったのか分からない。あれって、なんだったんだろう。

映画の最後に

January 28th, 2005

この前、映画を注意深く見ていたら最後に出てきた言葉。

“No animal was harmed during the making of this film.”

この団体がモニターしているらしい。
いや、心配だったんですよ。本編を見てる最中から何となく誰かに怒られないかと思って。余計なお世話かと思ったら、ちゃんと監視している人たちがいたのですね。熱心だなあ。。
こういう基準は法律で決まってるのかしら。監視とかモニターって結局検閲だし、作り手が萎縮するとも言われて、それはそれで怖いんだけれど、動物を殺したり傷つけてからでは遅いというのも事実だから、どこで介入するのかは微妙ですよね。

誰も検閲したくてしているのではないけれど、少なくとも動物のことに関しては検閲かなあ。。ヒトだったら当事者の利害関係があるだろうが、被害を受けるのがヒトでない場合は、検閲という方法しか今はないのかもしれないねえ。暴力加害を止めさせられないことをやってもし方がない。けれども、もしもそれで止めさせられるのなら、検閲のリスクは負う必要があるのかもしれない。

エコテロリスト

January 11th, 2005

ALFとその活動家の狙いは、テロや脅迫により、「動物の搾取」が経済的に引き合わなくなるほど警備コストを上昇させることだ。(イギリスの動物擁護ゲリラたち 『ル・モンド・ディプロマティーク』日本語・電子版 2004年8月号より

ずっと何であーゆー活動するんだろうと思っていたら、そういうことだったんですね。ちょっと納得した。
代替方法を開発するよりも動物実験はコストが安いことが動物実験の続く理由であるとされているから、その『コスト』を上げてやろうとしてるんだな、たぶん。(私自身は別に悪くない方法だと思っている。「動物を救うため、または動物を虐待する人の所有物に損害を与えるために、ガラス割りや放火といった行動を起こす者は誰でも、動物も人間も絶対に傷つけることのないかぎり」というのが本当ならば。)

こういう方法の賛否はともかく、動物実験が不必要なくらい安全な成分や方法しか使っていない商品が売れるようになるといいですね。そうしたら動物実験で安全性を確かめる必要がなくなるから。人に対する安全性は人で確かめて、人に頼めないような怖いことは動物にもしないで欲しいというのが動物の権利擁護運動する人の言い分です。

あと同じ記事にある攻撃対象になっている企業のコメントで、自分のところの実験がマシである根拠に他国の話を持ち出してもしょうがないですね。これでは神経を逆なでします。他の人がどんなに酷いことをしていても、自分がする酷いことがマシでも、悪いことは悪いと斬られて終わりです。分かってないというのは気の毒です。かわいそうになあ。

『里親』を人でないコドモに使うなと言われる

January 4th, 2005

(↑直接には言われていません。)

犬猫の里親という言い方に、反発を覚える人がいるのを私は知っています(子どもの権利運動関連で)。人間の子どもを引き取る里親は、養親と言ってもいいと思うけど、逆はないので里親を使えないのは不便だとは思う。というのは置いといても、養親に育てられている人間の里子にとって、あるいは人間の子どもを引き取って育てている人にとって、こういう風に里親という言葉が使われているのが不快な差別に聞こえるとしたら、自分や自分の子どもが犬猫みたいに気楽に取引されるように思えていやなのかもしれないですね。でもこの言い回しを犬猫に使うのは、人間の里子・里親を犬猫レベルに貶めるのではなくて、犬猫を人間レベルに押し上げる目的を持っていると私自身は今のところ思っています。だってこの使い方は今まではなかったのです。犬猫がまるで物のように気楽に取引されるのがフツーであったことが問題と気がつき始めたから里親という言い方をこんな風にも使えるようになったのです。

だいたいヒトがヒトでない動物たちと同等だといわれていると思って怒るのは、捻じ曲がった種差別※です。怒るんだったら、動物と一緒にされていることを問題にしないで、自分や自分の大切に思う人が下位におかれたり蔑ろにされたり軽んじられたりすることを問題にするべきだと思う。人間でない動物をそこでもう一度差別しなくても自分が差別された怒りは表明できると思う。

これは、白人の女性がまるで黒人並みに扱われていると怒った場合、人種差別の問題がすっ飛ぶという事態になるのと同じです。差別構造が何重かになっているとき、それぞれに反対することが矛盾したり対立するわけじゃないので、両方の差別に反対の意見表明しておくことは最低限できると思うし、実際直接に両方の差別に対抗する活動はすることなくても、それぞれが邪魔しあわないでいることはできると思う。ある差別に対して怒る中で別の差別を再生産とか再強化しないようにしないと、とか。

※ (speciesism を種差別と訳したリーダーズ英和が説明する間に意味を何だか取り違っているような気がして仕方がないのだが)私が言いたい種差別というのは、人間がピラミッドの頂点に位置していて、人間以外の動物を人間でないというだけの理由で下位に置くなんて、種が違うことを理由にひょっとして僕らはやつらを差別しているんじゃないか?!という概念です。

ところで犬猫から見た養い手の呼び名は元の飼い主から次の飼い主のところに移動する犬猫のために限定的に使われる『里親』以外には次の三つくらいしかないと思う。

飼い主
(ご)主人
パートナー

ご主人なんていうと主婦みたいね。。
えっと、パートナーというのは、むしろ人から見た動物について使われている。あなたのパートナーがどうこうって某シェルターのページに書いてあった。一瞬私は変な気がしたけど、コンパニオンアニマルは伴侶動物と訳されるようだから、これもありみたい。

自分の感覚としては、自分ちにいる私と犬の関係は主従関係というよりは親子関係に近いと思う(ルームメイトというほど対等じゃないし)。だからよそに預けたり譲ったりすることがあったら、『里親』探しをするという言い方になるのは自然かなあ、と個人的に感じています。

ベジタリアンだというと

January 3rd, 2005

イヌイットの話をする人に
・ イヌイットの話や黒人料理を持ち出されることがあるのですが、私たちが食べている肉というのは例えばイヌイットのそれではありません。今、ここにある、権利侵害をやめることはとても簡単なのに、なんで時代や地域が違う話なんてするのか。自分の目の前にある殺戮から目を背けても事実は覆りません。動物は、例えば私にとって生きるのに必要不可欠な選択肢のない食料ではありません。だから食べない。

部落差別だとか職業差別を持ち出す人に
・ 屠殺業者が差別されるのはそれがつらい仕事だからです。人に権利侵害をさせておいてなんて酷いことをしたんだと責めているのがこの場合の差別といわれているものです。初めから自分がいやなことは人にさせなければいいのです。動物を殺すのがいやな人は、動物を他の人に殺してもらわないでいるべきです。
もしも誰かに職業選択の自由がないのなら、それが問題なのです。私は、動物を殺す仕事は誰がやっても自分が直接かかわることがあっても倫理的に正しいとは思いません。社会が畜産も屠殺も産業として成立させるべきでないと思っています。

植物の権利を心配する人に
・ たとえ植物に権利があることを認めても、動物に権利がないことを認めないで肉食し続ける理由にはなりません。それに、植物を食べて動物の肉はできているのです。ヒトは動物を食べなくても生きていけます。動物を介さずに植物を直接食べた方が全体として殺される命の数は少なくてすみます。
また人間の食べ物にされるとき、植物が感じているかもしれない痛みと、動物が感じているだろう痛みは私には異なった重みを持っています。動物の方がずいぶん痛そうには見えませんか?

もう死んでしまった動物のことを悲しんでも仕方がないという人に
・ かわいがっていたペットを食料にするのはたいていの人がためらいます。家族のようにともに暮らした動物でも食料にされることが生まれたときから決められていた家畜でも、結局のところ私には食べられない。美意識の問題だとか死者に対する感情の問題だとか、説明は曖昧です。死体が誰の食料にもならずに無駄になるとは思えません。
でもおそらくパック詰めされたり加工された肉ならそれほど元の動物を想起させません。ただ誰かが一パック買えばその分売れると踏んで小売店はまた注文し、別の個体が新たに殺されるでしょう。もしもこれから殺される動物を思いやるなら、すでに殺された動物を消費できません。

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日本で暮らすようになってから、友だち面している割合親しい人たちににこういうことを立て続けに言われることがあって、ものすごく消耗してくたくたになりました。相手が肉を食べる現状を肯定するために、ベジタリアニズムを否定しようとされてるんじゃないかと思えると、こちらはどうやっても defensive になります。単に私の主義みたいなものが私の分だけ尊重されればいいんだけど、肉を食べないというと、こんな質問には答えられないだろうと相手が思っているらしき意地悪な質問をされる。で、こういう質問をする人に限って実は菜食主義に対して単に違和感の表明をしたいだけで、本当は私の答えを知りたがってはいないみたい。書いてみたものの。